2005年12月10日

三浦重周氏追悼

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経過報告 宮崎正弘

 いまから35年前、三島由紀夫、森田必勝両烈士が壮絶なる憂国の諫死をとげられた直後に、作家の山岡荘八先生が、つぎの献句を届けてくださいました。
 「白き菊、捧げまつらむ憂国忌」本日の集まりも故人の遺影に白菊を捧げます。
 さて我々の思想的同士、かけがえのない友人だった三浦重雄さんは、さる12月10日、故郷・新潟の岸壁において、皇居遙拝をすませ、正座を崩さずに古式にのっとり切腹、56歳の生涯をみずから閉じられました。

 当日は凛烈な寒風が波止場に吹き付けており天候は吹雪でした。この静かなる切腹は大西中将、阿南陸軍大臣、大東塾の多くの烈士、江藤小三郎、そして村上一郎の系譜にも繋がるものです。三島・森田両烈士の義挙からはや35年。その追悼会「憂国忌」の裏方の責任者でもあった三浦さんは、みごとな統率力で本年の催しを無事終了させ、憂国忌の事後処理を終え、恒例の多摩霊園における墓前報告蔡など一連の行事を滞りなくおえて、さあ一杯やろうか、と言い合っていた矢先、先に旅立ってしまったのです。

 12月4日の墓前祭のあとの直会(なおらい)では、自決を決意していたそぶりさえありませんでした。12月11日、第一報に小生は地面が揺れるような衝撃を受けました。急遽、新潟へ向かいました。

 関越道のトンネルをでると大雪でした。猛吹雪のなか、仮通夜のおこなわれている新潟市内の兄上の自宅に伺ったのは午後十時近くになってしまいましたが、すぐに焼香させていただき、遺体と対面しました。その壮烈、壮絶なデスマスクに深く感動して泪が止まりませんでした。兄上は「じつにみごとな最後でした」と静かな口調で言われました。
 翌12日の通夜と13日の本葬は近親者だけの密葬形式でおこなわれたため、皆さんへの連絡を差し控えさせていただきました。
 出棺後、火葬場まで立ち会って骨を拾いました。

 斎場へのみちのりは冬の新潟にふさわしい雪と日本海の荒波でした。
 しめやかながら粛々とした密葬でした。ご報告申し上げます。

 さて新潟に三日間滞在し、帰京いたしましたところ、メールや電話の回覧などで悲壮な自決を知った全国の皆さんから追悼の言葉、メッセージとともに、「追悼の機会を東京でおこなってほしい」「お別れをしなければ年が越せない」などの熱烈な伝言のやまに囲まれておりました。

 直ちに故人の親しかった友人らに集まってもらい本日の催しを決め、短時日ながら懸命の準備をすすめてまいりました。

 お手元の小冊子も緊急に編集、さきほど刷り上がったものです。故人の辞世が二首。ならびに「白骨を秋霜にさらすを懼れず」という壮絶な決意をはやくからのべていた重遠社の結成趣意書の一部が掲載されております。
 また故人のめずらしい写真および年譜を掲載しました。くわえて三浦さんは卓越した書を残しております。
書道を愛し、「毎日書道展」では数多くの入賞歴。
  東京都美術館で開催される国際書道展にも数々入賞しており、会場に展示しております掛け軸は平成十四年に特選を受賞したものです。殆どの人が知らないのは故人がシャイな性格だったので、ひけらかさなかったからです。


三浦重周先輩の思想、人となり 後藤晋一

 三浦重周先輩に師事し、ご指導を戴いておりました後藤晋一ともうします。30年近く前、三浦先輩から一冊の古書をいただきました。戦後まもなく刊行された、精神的歴史主義に立つドウソンの「宗教と近代国家」という小冊ですが、その書の扉対向の白ページには、先生のクセのある筆跡で、次の言葉が、赤鉛筆で書き込まれております。曰く…、「近代の<神々>に死を宣告し/我らが神々の歴史的復権を!」その下には、「49.11.9」とありますので、25歳の三浦青年が発した激越ですが、若々しい気負いを伝え、その後終生一貫した強靭な思想性を表徴しております。

 ある大思想家の言葉に、「偉大なことは、方向を与えることだ」というものがあります。三浦先輩は、維新革命への綱領問題に取り組み、方向を指し示すことに全精力、全生活を傾けてこられた方でありました。時間の制約から細かな経歴や、時代状況の説明は省略いたしますが、三浦先輩は、昭和45年、早大入学と同時に、「反ヤルタ・ポツダム体制=日米片務同盟打倒」の反共・新民族主義路線を、学生戦線に提起していた、日本学生同盟に加盟します。そしてその年に、三島・森田両烈士による市ヶ谷台の義挙に直面しました。
 昭和48年、日学同の委員長となり、新民族主義政治党派としての「建党=建軍」路線を打ち出したことは、画期的でありました。

 また「建党=建軍」路線を担保する「鉄の規律」による組織論も、左右両翼の耳目を集めるものでした。日学同委員長退任後も、政治局長として組織理論に責任を持ってこられましたが、民族の歴史的危機が深まるなか、少年期から抱いてきた「維新革命」への熱誠は、学生運動という自己限定を越えて次なる構想へと向かい、昭和52年天長節の「重遠社」創建へと至りました。

 日学同=新民族主義運動十年の苦闘のなかから生まれた重遠社は、「…神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ジ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ…」と示された、「終戦の詔勅」を絶対当為とし、綱領の第一に「敗戦国家の革命」を掲げ、民族派戦線に躍り出ます。

 三浦先輩は、後期昭和維新派としての、強い自覚と責任のもと、大日本主義を掲げ、機関紙誌「新民族主義」「新秩序」に論陣を張り、多くの同志を糾合しました。「思想の価値は感化力である」の言葉どおり、先輩の諸理論は人々を魅き付けましたが、感化力の最大のものは、そのお人柄にありました。愛国の初発の「志」を純粋に保ち続けること。

 自覚と信念、生涯をとおして運動を続けることの大切さを教えてくださいました。多くの後進を、愛国者へと啓発してゆく先輩は、その実践者としての普段の暮らしぶりは、厳格なまでに規則正しく清潔で、他に強いることはしませんでしたが、極めて質素な生活を続けられました。

 さて三浦先輩の思想にふれますと、国史への深い理解と知識、国法学者も舌を巻く、国体論によって論じられた、諸論文や講話のなかにその真骨頂はあります。

 三浦先輩の思想に影響を与えたなかに、三島由紀夫・森田必勝両烈士があることは、論をまちませんが、学生時代から京都学派になる書籍に数多くふれ、また京都学派の影響を受けた、文部省「国体の本義」は勉強会でもよく用いられた愛読書でありました。

 戦前の昭和維新運動のなかで、北一輝と大川周明は、両雄として並び称され、強烈な人格と、拠って立つ運動体の違い、そして異なる暮らしぶりは、両者が袂を分かったこともあり、昭和維新史・精神史のうえでは、対極的に捉えられることがありますが、三浦先輩のなかでは、両者の思想の精髄が矛盾なく血肉化されていました。先輩は、おりにふれ、北一輝の「支那革命外史」を繰り返して読んでらっしゃいました。
 この書から、革命哲学と、不撓不屈の革命家の魂を学ぶのだとおっしゃっていました。
 また、大川周明の「二千六百年史」も、維新による祖国復興を確信させる、国史の基本文献として、つねに手元にありました。博覧強記、記憶力のよさは、しばしばひとを驚かせました。

 高邁なわが国の歴史、文化が論じられるときも、ときおり、俗っぽい卑近なも話題も織り交ぜられ、気がつけば、美しい日本の歴史と、聞き手との一体感が得られるのでした。二年程前、次なる論文の構想をお聞きしたとき、冗談めいておっしゃったことは、「あとはカント批判だけだな」という答えでしたが、思想的には、すでに完成された余裕の域にあったように思います。

 先輩は日本民族の特徴を、自然崇拝、現世的、国家的と三つ挙げています。今日の日本は、内に外に、反日・反国体勢力がうごめき、倫理・道徳は地を払い、心胆寒からしめるものがあります。しかし三浦先輩は日本の将来を悲観することは、一切ありませんでした。歴史に精通された慧眼をもって、日本民族には、外圧が来るまで何も起こらないというお考えでした。しかしそれは、ひたすら待機することではありません。

 先覚的愛国者が、たゆまず立ち上がり、運動を継続し、先人の精神を継承してゆくこと、今日このときにおける闘いの重要性を、ご自身の実践的生活のなかに、示されていたのでありました。
 今日、皇室典範をめぐり、不易の皇統に、俗権が容喙しておりますが、このときにあって、先輩の明快なるご高説に接しえぬことは悔やまれます。不世出の思想家であり、卓越した理論家であり、信念の指導者であり、慈愛に満ちた教育者でありました国士三浦先輩の、思想と人となりをご紹介するには、はなはだ、いたらぬ話となりました。
  のちほど、諸先輩、同憂、同志諸賢の追悼のお話の中で、補っていただければ、有難く存じます。


 会場では全国から参集した同士の懇談、決意表明。最後は「海ゆかば」の大合唱がおこなわれました。
 ご参列の皆さま、有り難う御座いました。

 またご供花、弔電、メッセージをおよせいただいた皆さん、欠席ながらもメッセージを頂いたり、御供花をお送りいただいた皆さん、心からご芳情に感謝申し上げ、あつく御礼を申し上げます。
posted by 三島研事務局 at 01:14| 追悼