2008年04月05日

片岡鉄哉先生追悼

 2008年4月5日、東京湾から横浜沖へクルーズ船で、ご遺族とともに沖合で片岡鉄哉先生の散骨式に参加しました。
政治学者、元つくば大学教授、フーバー研究所シニアフェローの片岡鉄哉氏は「憂国忌」の発起人でした。
当日、天候は晴れ渡り、風も凪いで穏やかな日和に恵まれ厳粛なセレモニーでした。
添付は『月刊日本』五月号の追想記。

片岡鉄哉先生追悼 (月刊日本5月号「羅針盤」)

宮崎正弘

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 端正で短髪で身のこなしが敏捷、なんとなくハリウッドの俳優ジョージ・クルーニーに似ていた。
 片岡鉄哉氏と初めての出会いは一九八一年頃だった。場所は平河町の加瀬英明氏の事務所か、或いは永田町のTBRビルに事務所を置いていた「日本安全保障研究センター」(三好修所長、加瀬英明理事長)だと記憶する。
 初対面の印象はアメリカ的なビジネスライクな装い。持って回った言い回しを嫌う人だった。結論の速い政治学者だった。
 ちょうど四半世紀に亘る米国生活を切り上げて日本に帰ってきたばかりで埼玉大学で教鞭を執られていた。その後、筑波大学へ移る。日本でのデビュー作『黒船待ちの日本』は衝撃的だった。
 現代日本にもペリー来航のごとき衝撃でもないと日本国民のアイデンティティの復活は難しく、国防への関心も薄く、要するに日本は国家としての体をなしえない。主権国家なら核を持つべきではないか、と日本版ドゴールのような主張だった。
 和風ドゴールと名付けられた。
 オピニオン誌に論文も書かれるようになられた。当時、もうひとり彗星のように論壇に出てきたのは『超先進国日本』を書いた中川八洋氏だった。
 永田町のTBRビルはたまり場のようになって、その事務局長を臨時にさせられていた筆者は、ひそかに梁山伯を狙っていたのだが、交通の便が良すぎるせいか、東西の学者、日米間で交互に出入りする交流センターのような役割を担っていた。
 当該安保センターは米国にあるシンクタンクの日本版のように政策提言集団を企図したのだが、税法の違いで日本では資金が集まらず大手企業はそっぽを向いており、運営はうまく行かなかった。
 米国と違って政府と官庁がシンクタンクの役目を果たしている日本では民間の動きは露骨に阻害されもしたが、めげない連中が集まった。権力欲のつよい学者らの足は自然に遠のいた。
 そのことは措くとして80年に安保条約二十周年記念日米セミナーを共催したヘリティジ財団が刊行している週刊のニュースレターに刺激をうけて、日本の政治情報を英語で正確にワシントンへ発信することは有意義とばかりに、英文の週刊紙を出そうということになった。
 片岡さんは週に数回は永田町にやってきてお得意の英語を駆使され、手動のタイプを叩いた。その速きこと。
 なにしろ片岡氏は米国滞在25年、ダンプの運転手やら鉄工所勤務など苦学されてシカゴ大学で博士号、NY大学で教鞭をとるという生活から帰国されたばかり。日本の政治情況を把握するのに要領を得ない時期だった。
 よく飲みに行った。メンバーは加瀬英明、三好修、ガレット・スカレラ、ときに花井等、中川八洋の各氏である。
「どうして米国へいきなり行こうと思ったんですか」と或る夜、新宿ゴールデン街のスナックで尋ねたものだった。
「読売新聞を一緒にうけた早稲田で同級の本田靖春が受かって僕が補欠だった。それで一念発起して米国でチャレンジしようと思ったのさ」。
 いつもズボンに折り目をいれ、靴はぴかぴかでときに流行のブーツ。ダンディなことはわかるがどこで身につけられたのか。米国仕込みなのか。
 83年の夏、ひょっとして84年かもしれない。筆者もワシントンに滞在していたので片岡さんに電話をかけた。当時、氏はスミソニアンの研究所にいたが、Kストリートの日本料理屋で待ち合わせ、米国政治の最新情報を聞いたりした。
 氏の鋭角的で政局を裁断する政治分析にファンは多いが、日本の論壇に現れた頃は理解者が少なかった。議論の建て方にアメリカ的と感じることもよくあった。
 余暇はテニスやジョギング好き、フーバー研究所時代のテニス仲間はと言えば、かのコンドレーサ・ライス(ブッシュ政権後期から国務長官)である。

 2003年夏に台湾へ一緒に行った。井尻千男、藤井厳喜両教授と一緒だった。当時、政権奪回を目指す国民党側は連戦と宋楚瑜が正副総統チケットを取り決めたばかりだった(翌年僅差で国民党・親民党連合は陳水扁に敗退したが)。
 台北の国賓ホテルへチェックインして食事をしていると、隣の宴会場にテレビカメラの放列、何事かと見れば連・宋共同会見である。
 食事が終わって会見場を覗くと、ちょうど終わったばかりで、すばやく片岡さんは連戦(現国民党名誉主席)と握手。二人は大学留学時代の同級生なのである。
「やぁ、連戦(リヤンチェン)!」と片岡氏が呼べば先方は「ペンカン」(片岡の中国語発音)と懐かしそうだった。台湾のテレビが撮影していた。冒頭の写真は、筆者がそのときカメラの放列にもまれながら撮影したもので、ぶれているのはそのためである。
 滞在中、李登輝前総統にも淡水の台湾総合研究所」でお目にかかった。片岡さんは台湾問題に重大な関心を抱いていた。
 近年は毎月一回の「路の会」(西尾幹二氏が主宰の勉強会)で会った。恒例の二次会には欠席がちになられ、どうされたのか気にかけている裡に入院したとの連絡があった。
 病院に見舞いに行くと元気そうで、若返るようにとピンクのネクタイを贈呈した。

 退院されてからも三回ほどやはり「路の会」で会った。入院生活がつらかった様子で二次会参加は遠慮されるようになった。
 昨師走に急逝された。棺には愛用のブルックスブラザースの背広、そのネクタイも添えられたと実妹から伺った。遺作は日本の復活を説く『核武装なき改憲は國を滅ぼす』(ビジネス社刊)となった。
 四月五日、桜の残る東京湾をクルーザーで出航し、横浜沖で沢山の花輪と一緒に散骨した。氏の遺言だった。
 そのセレモニーに参加した筆者は遺骨を海に流すとき、心の中で「海ゆかば」を歌っていた。
posted by 三島研事務局 at 01:28| 追悼