2011年10月29日

三島と金沢の重厚な関係

宮崎正弘 (評論家・金沢市出身)


 文豪・三島由紀夫の死後四十一年、いまも世界中で研究がすすみ、評伝と研究書だけでも一千冊を超える。英語の評伝も弐冊、フランス語一冊。日本では卒論に三島を選ぶ国文学系学生が夥しい。まさに秋山駿が言ったように「死後も成長する作家」だ。
 ところが三島由紀夫と金沢の重厚な関係がこれまで深く論じられたことがなかった。三島の精神形成に深甚な影響を与えた系譜と経過がようやく解明されよ うとしている。
 三島の母親倭文重は金沢出身の橋健三の娘である。そして兄の橋健行は文学青年にして医者、早世したが三島の先駆者というべき作風の文章を残している。
 この”新発見”は『三島由紀夫研究』(鼎書房)の第十一号に「三島由紀夫と橋家」を書いた岡山典弘氏による。従来の三島評伝が軽視あるいは無視してきた母方のご先祖の家系が持つ意味を探ると加賀藩の漢学者だった橋家の子孫が三島の母親という関係が改めて浮かび上がったのである。
 三島の祖母・夏子に関しては多くが語られた。三島に大きな影響を与えたと> いう文脈で。祖母は幕臣だった永井玄蕃をルーツとしていることは明瞭であり、一方、祖父の平岡定太郎は福島県知事から樺太庁長官、疑獄に巻き込まれ失職後は山師的な行動をとった。だから三島伝記の多くは永井玄蕃の血脈から佐幕派であると断定し、保守頑迷派と認定しがちだった。まして新撰組の近藤勇の法要に花束を贈った三島の逸話などが伝記に並んだ。
 橋家のことを最初に書いたのは三島の親友でもあった村松剛『三島由紀夫の世界』で、村松の母親が、三島の母親と親しく、だから結婚前の姓である「橋さんは…」という会話が成り立った。大久保にあった家屋をさして村松の母親は「あれが橋さんのおうち、お父様は開成高校の校長だった」。
 加賀百万石の漢学者橋健堂に婿入りしたのが祖父の橋健三。金沢から上京して悪戦苦闘の末、開成高校の校長。有能な青年を育てるために学校経営に血のにじむ苦労をなし、いまも教育者として名を残している。
 この学校からは不思議な縁で結ばれ北杜夫、斎藤茂吉、そして伊部恭之助(後の住友銀行最高顧問、三島の縁戚でもあった)などへと繋がる。三島は泉鏡花を好んだが、従来説では祖母の影響とされた。しかし村松前掲書によれば母親が好きだった由である。金沢の文化を守ろうとする、やや頑迷な姿勢こそが伝統を重んじ皇室に文化の中軸をおく三島の「文化防衛論」と繋がる。
 このように金沢の縁が深かったために三島は昭和三十六年に金沢をつぶさに取材し、宝生流の能舞台、卯辰山、内灘砂丘を克明に描写した。この光景は傑作『美しい星』にみごとに活写された。
 筆者は三島作品を殆ど読んだうえ三島由紀夫を論じた三部作も上梓したが、『美しい星』に関して言えば、ストーリィの奇想天外と登場人物のユニークさに度肝を抜かれ、金沢の情景描写の素晴らしさに陶酔しただけだった。三島のご先祖が加賀藩の儒学者、その子が名のある教育者であった側面を深追いしなかった。 これからの研究成果を期待したい。
(「北風抄」北國新聞 平成23年10月25日付より転載)

posted by 三島研事務局 at 16:28| 関連記事