2015年05月17日

11月7日、四日市で「森田必勝 追悼会」が開催されます


 森田必勝(楯の会学生長、自決)の没後45周年を記念し、追悼会が開催されることが決まりました。
 記念講演は宮崎正弘氏(評論家)
 宮崎正弘氏は学生時代に日本学生同盟幹部、日本学生新聞編集長。学生運動で森田の友人。事件直後、森田必勝遺稿集『わが思想と行動』(日新報道)を編纂した。
三島由紀夫研究での著作には『三島由紀夫「以後」』(並木書房)、『三島由紀夫はなぜ日本回帰したのか』(清流出版)、『三島由紀夫の現場』(並木書房)の三部作がある。

とき   11月7日 1400―
ところ   四日市市文化会館
入場無料(予定)
名古屋、岐阜、京都方面の愛国者のみなさん、ふるってご参加下さい。
posted by 三島研事務局 at 09:51| 追悼

2014年04月12日

山川京子先生(歌人、憂国忌発起人)逝去


 憂国機発起人のおひとりで歌人の山川京子さんが3月20日に逝去された。享年92歳。通夜、本葬には歌人を偲んで歌詠み仲間二百名近くが参列した。出棺のお見送りには「桜井の別れ」が合唱された。

遺詠
 いちにんの君を思ひて七十歳 面影は今も若くうつくし
 老いてなお思はるるかな めぐまれし一人の恋の何ぞめでたき


posted by 三島研事務局 at 14:56| 追悼

2014年01月12日

森田必勝烈士、追悼シンポジウム開催

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 平成25年11月24日、四日市は快晴だった。
 四日市文化ホールには全国からおよそ200名の熱心な三島ファンならびに関係者など参加者が駆けつけ、遠くは北海道、関東からは団体で、そして関西方面からも列車やバスを乗り継いで、それぞれの熱い愛国心を秘めて、四日市へ馳せ参じた。
 「あの1970年代を駆け抜けた森田必勝の青春」と題するシンポジウムに参加するためである。

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 会は冒頭に森田必勝実兄の森田治氏(元三重県議会副議長)が挨拶。実弟の森田必勝の青春時代、中学、高校時代の人生への取り組みや、二年に亘った浪人時代の思い出を淡々と語った。その並々ならぬ決断力において初心を貫徹した人生を兄としてどうみるか、などを語り継いだ。故郷の四日市でこのような追悼の式典を実行することが長年の責務と感じてきたとも言われた。
 また父親が「必勝と、もうひとつ和平という名前を用意していたが、終戦間際のタイミングで生まれたので必勝にしたのだろう」とも語られた。

 引き続き宮崎正弘氏が講演し、遺稿集作成までの秘話を中心に森田必勝と三島由紀夫との出会い、学生運動時代の森田は「我が事において悔いず」がモットーであり、集会ではいつも「僕は国のために死にたいと思います」と明るくかたり、三島小隊第一回の体験入隊(一ヶ月、これは楯の会第一期生)から帰ると、オフィスでさらさらと「僕は三島先生のためにはいつでも命をかけます」と書いて速達で出したことなどを語った。
 「われわれは人生をいかにこれから生きるかで懊悩していたとき、かれは如何に死ぬかを考えていた」。
 また遺稿集は森田が残した十六冊の日記の重要部分の抜粋であり、資料的価値に溢れることなどが強調された。
 会場受付にはこの貴重な遺稿集がおかれ、たちまち全冊完売となった。

 引き続き鈴木邦男氏が講演し、森田との思い出や若松孝二監督作品の映画のこと、あれは森田事件ではなかったのか、などとした。
 学生運動には派閥抗争もあった。その中心人物のひとりでもあった鈴木氏は、森田のキリスト教の素養との関係も指摘した。
 
 会場には参加した、日本学生同盟初代委員長の斉藤英俊氏、楯の会同期生の山本之聞氏、武井宗行氏らが紹介され、また森田のあとの全日本学生国防会議議長、高柳光明、三島研究会代表幹事の玉川博己氏、評論家の中島岳志氏、三重県議の三谷哲央氏らが簡単なスピーチを行った。

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 なお三島研究会はシンポジウムに先立ち、近鉄四日市駅前に集合してチャーターバスで森田必勝実家の顕彰碑と銅像を見学後、ちかくの墓地へ集団で参拝した。
この墓参には30名近くが全国から駆けつけて焼香した。お墓はたくさんの花々で飾られた。

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posted by 三島研事務局 at 22:28| 追悼

2011年12月09日

七回忌「早雪忌」


三浦重周(三島研究会元事務局長)の七回忌「早雪忌」
全国から70名近くが集合し、盛大に厳粛に故人を偲びました

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 12月3日正午から市ヶ谷の私学会館において、「早雪忌」が開催され、福岡、神戸、宝塚など全国から70名近くが参集した。
わけても新潟から三浦烈士の長兄が東京の祭祀には初めて参加され、「このように心温まる催しを、友情にみちた諸先生、諸兄が執り行ってきていただいたこと、まことに感謝に堪えず、冥界の弟も喜んでいると確信します。また菩提寺の住職によれば、お墓にだまって供花、線香、供物などいただき、恐縮の限り、弟の墓は花が絶えたことがありません」
 会は佐々木俊夫が司会し、国歌斉唱、黙祷のあと、井上正義、玉川三島研究会代表幹事が挨拶した。
 井上は三浦烈士の思想上の意義を述べた。
献杯のあと懇談に移り、思い出話や決意表明があった。

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 故人が好きだった会津の銘酒「栄川」と「久保田」など日本酒が大量にふりまわれたのも、三浦烈士は日本酒党だったからだ。
 追悼挨拶には作家の山平重樹(現在三浦重周伝記を執筆中)や後藤晋一より伝記の進捗具合の報告があった。また「一水会」の木村三浩、鈴木邦男両代表、維新政党「新風」の幹部にひきつづき、日本学生同盟の歴代委員長だった片瀬裕、山本しもん等も挨拶し、和やかな中にも清冽で厳粛な空気だった。閉会の辞は宮崎正弘がのべた。
  長兄は二次会にも参加され、また参会者全員に故人の出身地新潟県巻町のお米を土産に配った。

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発起人は下記の通り(五十音順、敬称略)。
淺岡敬史、浅野正美、安藤浩二、石渡寿哉、井上正義、井上喜美子、植田剛彦、上野晴夫、上野善久、小川正光、尾形香代子、片瀬裕、古賀俊昭、後藤尚二、後藤修一、後藤晋一、斎藤英俊、佐々木俊夫、柴田章雄、菅谷誠一郎、杉浦利重、鈴木秀寿、武田浩一、玉川博己、高柳光明、田村誠、富岡幸一郎、中西哲、馬場日出雄、平田隆太郎、平野寛明、比留間誠司、府越義博、南丘喜八郎、正木和美、松島一夫、宮川英之、宮崎正弘、山本之聞、山本徳造、吉野洋子
posted by 三島研事務局 at 22:02| 追悼

2008年04月05日

片岡鉄哉先生追悼

 2008年4月5日、東京湾から横浜沖へクルーズ船で、ご遺族とともに沖合で片岡鉄哉先生の散骨式に参加しました。
政治学者、元つくば大学教授、フーバー研究所シニアフェローの片岡鉄哉氏は「憂国忌」の発起人でした。
当日、天候は晴れ渡り、風も凪いで穏やかな日和に恵まれ厳粛なセレモニーでした。
添付は『月刊日本』五月号の追想記。

片岡鉄哉先生追悼 (月刊日本5月号「羅針盤」)

宮崎正弘

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 端正で短髪で身のこなしが敏捷、なんとなくハリウッドの俳優ジョージ・クルーニーに似ていた。
 片岡鉄哉氏と初めての出会いは一九八一年頃だった。場所は平河町の加瀬英明氏の事務所か、或いは永田町のTBRビルに事務所を置いていた「日本安全保障研究センター」(三好修所長、加瀬英明理事長)だと記憶する。
 初対面の印象はアメリカ的なビジネスライクな装い。持って回った言い回しを嫌う人だった。結論の速い政治学者だった。
 ちょうど四半世紀に亘る米国生活を切り上げて日本に帰ってきたばかりで埼玉大学で教鞭を執られていた。その後、筑波大学へ移る。日本でのデビュー作『黒船待ちの日本』は衝撃的だった。
 現代日本にもペリー来航のごとき衝撃でもないと日本国民のアイデンティティの復活は難しく、国防への関心も薄く、要するに日本は国家としての体をなしえない。主権国家なら核を持つべきではないか、と日本版ドゴールのような主張だった。
 和風ドゴールと名付けられた。
 オピニオン誌に論文も書かれるようになられた。当時、もうひとり彗星のように論壇に出てきたのは『超先進国日本』を書いた中川八洋氏だった。
 永田町のTBRビルはたまり場のようになって、その事務局長を臨時にさせられていた筆者は、ひそかに梁山伯を狙っていたのだが、交通の便が良すぎるせいか、東西の学者、日米間で交互に出入りする交流センターのような役割を担っていた。
 当該安保センターは米国にあるシンクタンクの日本版のように政策提言集団を企図したのだが、税法の違いで日本では資金が集まらず大手企業はそっぽを向いており、運営はうまく行かなかった。
 米国と違って政府と官庁がシンクタンクの役目を果たしている日本では民間の動きは露骨に阻害されもしたが、めげない連中が集まった。権力欲のつよい学者らの足は自然に遠のいた。
 そのことは措くとして80年に安保条約二十周年記念日米セミナーを共催したヘリティジ財団が刊行している週刊のニュースレターに刺激をうけて、日本の政治情報を英語で正確にワシントンへ発信することは有意義とばかりに、英文の週刊紙を出そうということになった。
 片岡さんは週に数回は永田町にやってきてお得意の英語を駆使され、手動のタイプを叩いた。その速きこと。
 なにしろ片岡氏は米国滞在25年、ダンプの運転手やら鉄工所勤務など苦学されてシカゴ大学で博士号、NY大学で教鞭をとるという生活から帰国されたばかり。日本の政治情況を把握するのに要領を得ない時期だった。
 よく飲みに行った。メンバーは加瀬英明、三好修、ガレット・スカレラ、ときに花井等、中川八洋の各氏である。
「どうして米国へいきなり行こうと思ったんですか」と或る夜、新宿ゴールデン街のスナックで尋ねたものだった。
「読売新聞を一緒にうけた早稲田で同級の本田靖春が受かって僕が補欠だった。それで一念発起して米国でチャレンジしようと思ったのさ」。
 いつもズボンに折り目をいれ、靴はぴかぴかでときに流行のブーツ。ダンディなことはわかるがどこで身につけられたのか。米国仕込みなのか。
 83年の夏、ひょっとして84年かもしれない。筆者もワシントンに滞在していたので片岡さんに電話をかけた。当時、氏はスミソニアンの研究所にいたが、Kストリートの日本料理屋で待ち合わせ、米国政治の最新情報を聞いたりした。
 氏の鋭角的で政局を裁断する政治分析にファンは多いが、日本の論壇に現れた頃は理解者が少なかった。議論の建て方にアメリカ的と感じることもよくあった。
 余暇はテニスやジョギング好き、フーバー研究所時代のテニス仲間はと言えば、かのコンドレーサ・ライス(ブッシュ政権後期から国務長官)である。

 2003年夏に台湾へ一緒に行った。井尻千男、藤井厳喜両教授と一緒だった。当時、政権奪回を目指す国民党側は連戦と宋楚瑜が正副総統チケットを取り決めたばかりだった(翌年僅差で国民党・親民党連合は陳水扁に敗退したが)。
 台北の国賓ホテルへチェックインして食事をしていると、隣の宴会場にテレビカメラの放列、何事かと見れば連・宋共同会見である。
 食事が終わって会見場を覗くと、ちょうど終わったばかりで、すばやく片岡さんは連戦(現国民党名誉主席)と握手。二人は大学留学時代の同級生なのである。
「やぁ、連戦(リヤンチェン)!」と片岡氏が呼べば先方は「ペンカン」(片岡の中国語発音)と懐かしそうだった。台湾のテレビが撮影していた。冒頭の写真は、筆者がそのときカメラの放列にもまれながら撮影したもので、ぶれているのはそのためである。
 滞在中、李登輝前総統にも淡水の台湾総合研究所」でお目にかかった。片岡さんは台湾問題に重大な関心を抱いていた。
 近年は毎月一回の「路の会」(西尾幹二氏が主宰の勉強会)で会った。恒例の二次会には欠席がちになられ、どうされたのか気にかけている裡に入院したとの連絡があった。
 病院に見舞いに行くと元気そうで、若返るようにとピンクのネクタイを贈呈した。

 退院されてからも三回ほどやはり「路の会」で会った。入院生活がつらかった様子で二次会参加は遠慮されるようになった。
 昨師走に急逝された。棺には愛用のブルックスブラザースの背広、そのネクタイも添えられたと実妹から伺った。遺作は日本の復活を説く『核武装なき改憲は國を滅ぼす』(ビジネス社刊)となった。
 四月五日、桜の残る東京湾をクルーザーで出航し、横浜沖で沢山の花輪と一緒に散骨した。氏の遺言だった。
 そのセレモニーに参加した筆者は遺骨を海に流すとき、心の中で「海ゆかば」を歌っていた。
posted by 三島研事務局 at 01:28| 追悼