2015年09月06日

「ポーツマス条約110周年 日露戦争の意義を問う国民の集い」

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 9月5日は、日本が日露戦争に勝利し、ポーツマス条約を締結して110周年にあたる。
 本来なら政府が主催すべき記念行事だが、百周年のときと同様に民間主催となった。
 会場の星陵会館には開始二時間前から列ができはじめ、開会時には満席となった。
 全員が起立して国歌斉唱のあと、日露戦争に散華した英霊への黙祷ではじまり、冒頭に「呼びかけ人」を代表して外交評論家の加瀬英明氏、つぎに前衆議院議員の西村真吾氏が関西から駆けつけられ熱弁をふるわれた。

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 記念講演は「世界史における日露戦争の意義」と題されて前防衛大学教授の平間洋一氏、「満蒙とは何か」として近・現代史家の宮脇淳子氏が、スライドを多用して熱弁を展開された。
 休憩を挟んで拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏、国際大学教授の福井雄三氏、前ウクライナ大使の馬渕睦夫氏とつづき、最後に全員起立して「海ゆかば」を斉唱、フィナーレは「頑張れ日本 全国行動委員会」の水島総・幹事長がつとめた。
 会場には時間の関係で発言の機会がなかった黄文雄氏、北村良和氏、鍛冶俊樹氏らが紹介され、大変な盛り上がりの中、会を終了した。

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ポーツマス条約110周年 国民のつどい
実行委員会(責任者 宮ア正弘)
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2011年12月08日

「真剣な生き方をした人」憂国忌で英ジャーナリスト

001.jpg 昭和45年11月25日、東京・自衛隊市ケ谷駐屯地で自決した作家、三島由紀夫の命日に開催される追悼会「憂国忌」。41回目の今年は東京・永田町の星陵会館で行われ、評論家の新保祐司さん(58)や石平さん(49)の講演の後、約400人の聴衆を前に、遠方からの客人が壇上に立った。生前の三島と親しく、自決当時は英紙「タイムズ」の東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスさん(73)。著書『三島由紀夫 生と死』(清流出版)は英語圏で広く読まれている三島の評伝だ。
 「一番思い出に残っているのは、銀座にある私のオフィスに彼が駆け込んできたときのこと」。45年3月、雪の富士山麓で行われた「楯の会」(三島が主宰した民兵組織)の野外訓練に記者としてただ一人同行し、その記事が掲載された直後だった。当時、楯の会は作家の酔狂なお遊びとして見られていたこともあり、三島は記事に感激してこう言ったという。「君が一番、僕のことを真剣に書いてくれた!」
 同年10月には、三島から手紙を受け取った。執筆中の小説を書き終えた時、世界が終わるような気がする−という記述で、何か恐ろしいことが起きる予感がしたという。「彼は本気で思い、発言したことを実行に移し、自ら犠牲になるのもいとわなかった。真剣な生き方をした人でした」と振り返った。
 一方、記念講演を行った新保さんは、東日本大震災で戦後日本の国のあり方が揺らいでいる現状に触れ、「その意味を日本人がどれだけ受け止められるかが重要だ。近代日本そのものへの問い直しが必要で、三島が行った(戦後日本への)根源的批判の意味はますます大きくなっている」と問いかけた。

(産経新聞 平成23年12月8日付、15面。磨井慎吾記者)
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2011年10月29日

三島と金沢の重厚な関係

宮崎正弘 (評論家・金沢市出身)


 文豪・三島由紀夫の死後四十一年、いまも世界中で研究がすすみ、評伝と研究書だけでも一千冊を超える。英語の評伝も弐冊、フランス語一冊。日本では卒論に三島を選ぶ国文学系学生が夥しい。まさに秋山駿が言ったように「死後も成長する作家」だ。
 ところが三島由紀夫と金沢の重厚な関係がこれまで深く論じられたことがなかった。三島の精神形成に深甚な影響を与えた系譜と経過がようやく解明されよ うとしている。
 三島の母親倭文重は金沢出身の橋健三の娘である。そして兄の橋健行は文学青年にして医者、早世したが三島の先駆者というべき作風の文章を残している。
 この”新発見”は『三島由紀夫研究』(鼎書房)の第十一号に「三島由紀夫と橋家」を書いた岡山典弘氏による。従来の三島評伝が軽視あるいは無視してきた母方のご先祖の家系が持つ意味を探ると加賀藩の漢学者だった橋家の子孫が三島の母親という関係が改めて浮かび上がったのである。
 三島の祖母・夏子に関しては多くが語られた。三島に大きな影響を与えたと> いう文脈で。祖母は幕臣だった永井玄蕃をルーツとしていることは明瞭であり、一方、祖父の平岡定太郎は福島県知事から樺太庁長官、疑獄に巻き込まれ失職後は山師的な行動をとった。だから三島伝記の多くは永井玄蕃の血脈から佐幕派であると断定し、保守頑迷派と認定しがちだった。まして新撰組の近藤勇の法要に花束を贈った三島の逸話などが伝記に並んだ。
 橋家のことを最初に書いたのは三島の親友でもあった村松剛『三島由紀夫の世界』で、村松の母親が、三島の母親と親しく、だから結婚前の姓である「橋さんは…」という会話が成り立った。大久保にあった家屋をさして村松の母親は「あれが橋さんのおうち、お父様は開成高校の校長だった」。
 加賀百万石の漢学者橋健堂に婿入りしたのが祖父の橋健三。金沢から上京して悪戦苦闘の末、開成高校の校長。有能な青年を育てるために学校経営に血のにじむ苦労をなし、いまも教育者として名を残している。
 この学校からは不思議な縁で結ばれ北杜夫、斎藤茂吉、そして伊部恭之助(後の住友銀行最高顧問、三島の縁戚でもあった)などへと繋がる。三島は泉鏡花を好んだが、従来説では祖母の影響とされた。しかし村松前掲書によれば母親が好きだった由である。金沢の文化を守ろうとする、やや頑迷な姿勢こそが伝統を重んじ皇室に文化の中軸をおく三島の「文化防衛論」と繋がる。
 このように金沢の縁が深かったために三島は昭和三十六年に金沢をつぶさに取材し、宝生流の能舞台、卯辰山、内灘砂丘を克明に描写した。この光景は傑作『美しい星』にみごとに活写された。
 筆者は三島作品を殆ど読んだうえ三島由紀夫を論じた三部作も上梓したが、『美しい星』に関して言えば、ストーリィの奇想天外と登場人物のユニークさに度肝を抜かれ、金沢の情景描写の素晴らしさに陶酔しただけだった。三島のご先祖が加賀藩の儒学者、その子が名のある教育者であった側面を深追いしなかった。 これからの研究成果を期待したい。
(「北風抄」北國新聞 平成23年10月25日付より転載)

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