2011年02月07日

新装版  森田必勝遺稿集

新装版 森田必勝遺稿集「わが思想と行動」
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 絶賛発売中
 詳細は下記へお問い合わせください。

 序文 森田治、中村彰彦ほか。
 新発見の写真五葉を新しく追加!
 解説 宮崎正弘

 B6版/上製本
 定価 1.800 円+税 
 日新報道 東京都港区芝公園 3-6-23 
 TEL   03-3431-9561

posted by 三島研事務局 at 23:46| 推薦図書

三島由紀夫研究会 推薦図書

『三島由紀夫事典』(松本徹・井上隆史・佐藤秀明編、勉誠出版)
『三島由紀夫の最期』(松本徹、文藝春秋)
『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』(宮崎正弘、清流出版)
『三島由紀夫”以後”』(宮崎正弘、並木書房)
『烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語』(中村彰彦、文藝春秋)
『小説 三島由紀夫事件』(山崎行太郎、四谷ラウンド)
『昭和精神史―戦後編』(桶谷秀昭、文春文庫)
『五衰の人』(徳岡孝夫、文春文庫)
『ペルソナ―三島由紀夫伝』(猪瀬直樹、文春文庫)
『西尾幹二の思想と行動』(西尾幹二、扶桑社)

posted by 三島研事務局 at 23:35| 推薦図書

「三島由紀夫論集」全3巻

第一巻 三島由紀夫の時代

戦争、そして占領下で(松本徹)
移りゆく時代の表現(佐藤秀明)
伝統文化の防衛と楯の会(宮崎正弘)
村松剛と三島(井上隆史)
様々な変容(田中美代子)

第二巻 三島由紀夫の表現

仮面の告白論(杉本和弘)
太陽と鐵論(井上隆史)
現実が許容しない詩(佐藤秀明)
盗賊とラディゲ(武井トゥンマン・典子)

第三巻 世界の中の三島由紀夫

三島とバレリィ(秋山駿)
ニーテェ、バタイユ、ハイデガー(井上隆史)
ギリシアとインドの間で(ロイ・スターズ)
三島におけるファシズム文学の問題(ロマノ・ビルピッタ)
ユルスナールの三島論(松本徹)


定価 各巻4500円(分売可)
発売 勉誠出版 お問い合わせ(03)5215−9021

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2008年04月05日

片岡鉄哉先生追悼

 2008年4月5日、東京湾から横浜沖へクルーズ船で、ご遺族とともに沖合で片岡鉄哉先生の散骨式に参加しました。
政治学者、元つくば大学教授、フーバー研究所シニアフェローの片岡鉄哉氏は「憂国忌」の発起人でした。
当日、天候は晴れ渡り、風も凪いで穏やかな日和に恵まれ厳粛なセレモニーでした。
添付は『月刊日本』五月号の追想記。

片岡鉄哉先生追悼 (月刊日本5月号「羅針盤」)

宮崎正弘

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 端正で短髪で身のこなしが敏捷、なんとなくハリウッドの俳優ジョージ・クルーニーに似ていた。
 片岡鉄哉氏と初めての出会いは一九八一年頃だった。場所は平河町の加瀬英明氏の事務所か、或いは永田町のTBRビルに事務所を置いていた「日本安全保障研究センター」(三好修所長、加瀬英明理事長)だと記憶する。
 初対面の印象はアメリカ的なビジネスライクな装い。持って回った言い回しを嫌う人だった。結論の速い政治学者だった。
 ちょうど四半世紀に亘る米国生活を切り上げて日本に帰ってきたばかりで埼玉大学で教鞭を執られていた。その後、筑波大学へ移る。日本でのデビュー作『黒船待ちの日本』は衝撃的だった。
 現代日本にもペリー来航のごとき衝撃でもないと日本国民のアイデンティティの復活は難しく、国防への関心も薄く、要するに日本は国家としての体をなしえない。主権国家なら核を持つべきではないか、と日本版ドゴールのような主張だった。
 和風ドゴールと名付けられた。
 オピニオン誌に論文も書かれるようになられた。当時、もうひとり彗星のように論壇に出てきたのは『超先進国日本』を書いた中川八洋氏だった。
 永田町のTBRビルはたまり場のようになって、その事務局長を臨時にさせられていた筆者は、ひそかに梁山伯を狙っていたのだが、交通の便が良すぎるせいか、東西の学者、日米間で交互に出入りする交流センターのような役割を担っていた。
 当該安保センターは米国にあるシンクタンクの日本版のように政策提言集団を企図したのだが、税法の違いで日本では資金が集まらず大手企業はそっぽを向いており、運営はうまく行かなかった。
 米国と違って政府と官庁がシンクタンクの役目を果たしている日本では民間の動きは露骨に阻害されもしたが、めげない連中が集まった。権力欲のつよい学者らの足は自然に遠のいた。
 そのことは措くとして80年に安保条約二十周年記念日米セミナーを共催したヘリティジ財団が刊行している週刊のニュースレターに刺激をうけて、日本の政治情報を英語で正確にワシントンへ発信することは有意義とばかりに、英文の週刊紙を出そうということになった。
 片岡さんは週に数回は永田町にやってきてお得意の英語を駆使され、手動のタイプを叩いた。その速きこと。
 なにしろ片岡氏は米国滞在25年、ダンプの運転手やら鉄工所勤務など苦学されてシカゴ大学で博士号、NY大学で教鞭をとるという生活から帰国されたばかり。日本の政治情況を把握するのに要領を得ない時期だった。
 よく飲みに行った。メンバーは加瀬英明、三好修、ガレット・スカレラ、ときに花井等、中川八洋の各氏である。
「どうして米国へいきなり行こうと思ったんですか」と或る夜、新宿ゴールデン街のスナックで尋ねたものだった。
「読売新聞を一緒にうけた早稲田で同級の本田靖春が受かって僕が補欠だった。それで一念発起して米国でチャレンジしようと思ったのさ」。
 いつもズボンに折り目をいれ、靴はぴかぴかでときに流行のブーツ。ダンディなことはわかるがどこで身につけられたのか。米国仕込みなのか。
 83年の夏、ひょっとして84年かもしれない。筆者もワシントンに滞在していたので片岡さんに電話をかけた。当時、氏はスミソニアンの研究所にいたが、Kストリートの日本料理屋で待ち合わせ、米国政治の最新情報を聞いたりした。
 氏の鋭角的で政局を裁断する政治分析にファンは多いが、日本の論壇に現れた頃は理解者が少なかった。議論の建て方にアメリカ的と感じることもよくあった。
 余暇はテニスやジョギング好き、フーバー研究所時代のテニス仲間はと言えば、かのコンドレーサ・ライス(ブッシュ政権後期から国務長官)である。

 2003年夏に台湾へ一緒に行った。井尻千男、藤井厳喜両教授と一緒だった。当時、政権奪回を目指す国民党側は連戦と宋楚瑜が正副総統チケットを取り決めたばかりだった(翌年僅差で国民党・親民党連合は陳水扁に敗退したが)。
 台北の国賓ホテルへチェックインして食事をしていると、隣の宴会場にテレビカメラの放列、何事かと見れば連・宋共同会見である。
 食事が終わって会見場を覗くと、ちょうど終わったばかりで、すばやく片岡さんは連戦(現国民党名誉主席)と握手。二人は大学留学時代の同級生なのである。
「やぁ、連戦(リヤンチェン)!」と片岡氏が呼べば先方は「ペンカン」(片岡の中国語発音)と懐かしそうだった。台湾のテレビが撮影していた。冒頭の写真は、筆者がそのときカメラの放列にもまれながら撮影したもので、ぶれているのはそのためである。
 滞在中、李登輝前総統にも淡水の台湾総合研究所」でお目にかかった。片岡さんは台湾問題に重大な関心を抱いていた。
 近年は毎月一回の「路の会」(西尾幹二氏が主宰の勉強会)で会った。恒例の二次会には欠席がちになられ、どうされたのか気にかけている裡に入院したとの連絡があった。
 病院に見舞いに行くと元気そうで、若返るようにとピンクのネクタイを贈呈した。

 退院されてからも三回ほどやはり「路の会」で会った。入院生活がつらかった様子で二次会参加は遠慮されるようになった。
 昨師走に急逝された。棺には愛用のブルックスブラザースの背広、そのネクタイも添えられたと実妹から伺った。遺作は日本の復活を説く『核武装なき改憲は國を滅ぼす』(ビジネス社刊)となった。
 四月五日、桜の残る東京湾をクルーザーで出航し、横浜沖で沢山の花輪と一緒に散骨した。氏の遺言だった。
 そのセレモニーに参加した筆者は遺骨を海に流すとき、心の中で「海ゆかば」を歌っていた。
posted by 三島研事務局 at 01:28| 追悼

2008年03月01日

林房雄先生33回忌

小林秀雄没後25周年 新保祐司氏が記念講演
鎌倉ゆかりの場所で全国からファンが参集


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 平成20年3月1日、鎌倉市商工会館において小林秀雄没後25周年を記念する文化行事が行われ、鎌倉周辺のファンばかりか全国から多数が参加した。

 三島研究会では鎌倉行きにちなみに同日午前に故・林房雄三十三回忌を部内で催行、上記行事に先立ち、林房雄先生次男の昭彦氏立ち会いの下、墓前祭を行った。
同市浄明寺入り口にある報国寺境内には懐かしい顔が勢揃いして、線香、ウィスキーなどを花とともに墓前に捧げ、全員で般若心経を読経した。

 旧林房雄邸は、その竹寺(報国寺)の左奥をぐっとあがった寺領内にあった。小泉三甲の斡旋だった。
山道の入り口には、一時、林が強引に移住を慫慂した川端康成が住んだ家屋も、近年まで残って居た場所。

 午後の講演会では正論大賞新風賞を受賞した新保祐司・都留文科大学教授が講演し、「批判と批評はちがう。小林が今日なお多くの読者を得ているのは謎の部分が多いからだ」などと小林文学の本質に触れた。
 会がはねて、小林秀雄ゆかりの由比ヶ浜の鰻料亭で集合し、桶谷秀昭氏らの回想談を聞いた。
 桶谷氏は「小林秀雄は謎めいていたが、保田輿重郎はもっと謎めいていた」
 小林秀雄全集をだした新潮社からも二人編集者がかけつけ、また渋沢龍彦夫人も談笑の輪に加わった。

 懇親会の鰻料亭にもぎっしり三十人があつまり、さらに懇親会は鎌倉駅前小町へと場所をかえて二次会。
 講師の新保氏を囲んで、文藝評論家の富岡幸一郎氏ら二十人で遅くまで懇談した。東京からの参加組は深夜帰宅となった。鎌倉在住組はさらに三次会へ流れた。
 天候に恵まれ、穏やかな日となった。
posted by 三島研事務局 at 01:24| 追悼