2011年02月07日

三島由紀夫研究会 推薦図書

『三島由紀夫事典』(松本徹・井上隆史・佐藤秀明編、勉誠出版)
『三島由紀夫の最期』(松本徹、文藝春秋)
『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』(宮崎正弘、清流出版)
『三島由紀夫”以後”』(宮崎正弘、並木書房)
『烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語』(中村彰彦、文藝春秋)
『小説 三島由紀夫事件』(山崎行太郎、四谷ラウンド)
『昭和精神史―戦後編』(桶谷秀昭、文春文庫)
『五衰の人』(徳岡孝夫、文春文庫)
『ペルソナ―三島由紀夫伝』(猪瀬直樹、文春文庫)
『西尾幹二の思想と行動』(西尾幹二、扶桑社)

posted by 三島研事務局 at 23:35| 推薦図書

「三島由紀夫論集」全3巻

第一巻 三島由紀夫の時代

戦争、そして占領下で(松本徹)
移りゆく時代の表現(佐藤秀明)
伝統文化の防衛と楯の会(宮崎正弘)
村松剛と三島(井上隆史)
様々な変容(田中美代子)

第二巻 三島由紀夫の表現

仮面の告白論(杉本和弘)
太陽と鐵論(井上隆史)
現実が許容しない詩(佐藤秀明)
盗賊とラディゲ(武井トゥンマン・典子)

第三巻 世界の中の三島由紀夫

三島とバレリィ(秋山駿)
ニーテェ、バタイユ、ハイデガー(井上隆史)
ギリシアとインドの間で(ロイ・スターズ)
三島におけるファシズム文学の問題(ロマノ・ビルピッタ)
ユルスナールの三島論(松本徹)


定価 各巻4500円(分売可)
発売 勉誠出版 お問い合わせ(03)5215−9021

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2008年04月05日

片岡鉄哉先生追悼

 2008年4月5日、東京湾から横浜沖へクルーズ船で、ご遺族とともに沖合で片岡鉄哉先生の散骨式に参加しました。
政治学者、元つくば大学教授、フーバー研究所シニアフェローの片岡鉄哉氏は「憂国忌」の発起人でした。
当日、天候は晴れ渡り、風も凪いで穏やかな日和に恵まれ厳粛なセレモニーでした。
添付は『月刊日本』五月号の追想記。

片岡鉄哉先生追悼 (月刊日本5月号「羅針盤」)

宮崎正弘

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 端正で短髪で身のこなしが敏捷、なんとなくハリウッドの俳優ジョージ・クルーニーに似ていた。
 片岡鉄哉氏と初めての出会いは一九八一年頃だった。場所は平河町の加瀬英明氏の事務所か、或いは永田町のTBRビルに事務所を置いていた「日本安全保障研究センター」(三好修所長、加瀬英明理事長)だと記憶する。
 初対面の印象はアメリカ的なビジネスライクな装い。持って回った言い回しを嫌う人だった。結論の速い政治学者だった。
 ちょうど四半世紀に亘る米国生活を切り上げて日本に帰ってきたばかりで埼玉大学で教鞭を執られていた。その後、筑波大学へ移る。日本でのデビュー作『黒船待ちの日本』は衝撃的だった。
 現代日本にもペリー来航のごとき衝撃でもないと日本国民のアイデンティティの復活は難しく、国防への関心も薄く、要するに日本は国家としての体をなしえない。主権国家なら核を持つべきではないか、と日本版ドゴールのような主張だった。
 和風ドゴールと名付けられた。
 オピニオン誌に論文も書かれるようになられた。当時、もうひとり彗星のように論壇に出てきたのは『超先進国日本』を書いた中川八洋氏だった。
 永田町のTBRビルはたまり場のようになって、その事務局長を臨時にさせられていた筆者は、ひそかに梁山伯を狙っていたのだが、交通の便が良すぎるせいか、東西の学者、日米間で交互に出入りする交流センターのような役割を担っていた。
 当該安保センターは米国にあるシンクタンクの日本版のように政策提言集団を企図したのだが、税法の違いで日本では資金が集まらず大手企業はそっぽを向いており、運営はうまく行かなかった。
 米国と違って政府と官庁がシンクタンクの役目を果たしている日本では民間の動きは露骨に阻害されもしたが、めげない連中が集まった。権力欲のつよい学者らの足は自然に遠のいた。
 そのことは措くとして80年に安保条約二十周年記念日米セミナーを共催したヘリティジ財団が刊行している週刊のニュースレターに刺激をうけて、日本の政治情報を英語で正確にワシントンへ発信することは有意義とばかりに、英文の週刊紙を出そうということになった。
 片岡さんは週に数回は永田町にやってきてお得意の英語を駆使され、手動のタイプを叩いた。その速きこと。
 なにしろ片岡氏は米国滞在25年、ダンプの運転手やら鉄工所勤務など苦学されてシカゴ大学で博士号、NY大学で教鞭をとるという生活から帰国されたばかり。日本の政治情況を把握するのに要領を得ない時期だった。
 よく飲みに行った。メンバーは加瀬英明、三好修、ガレット・スカレラ、ときに花井等、中川八洋の各氏である。
「どうして米国へいきなり行こうと思ったんですか」と或る夜、新宿ゴールデン街のスナックで尋ねたものだった。
「読売新聞を一緒にうけた早稲田で同級の本田靖春が受かって僕が補欠だった。それで一念発起して米国でチャレンジしようと思ったのさ」。
 いつもズボンに折り目をいれ、靴はぴかぴかでときに流行のブーツ。ダンディなことはわかるがどこで身につけられたのか。米国仕込みなのか。
 83年の夏、ひょっとして84年かもしれない。筆者もワシントンに滞在していたので片岡さんに電話をかけた。当時、氏はスミソニアンの研究所にいたが、Kストリートの日本料理屋で待ち合わせ、米国政治の最新情報を聞いたりした。
 氏の鋭角的で政局を裁断する政治分析にファンは多いが、日本の論壇に現れた頃は理解者が少なかった。議論の建て方にアメリカ的と感じることもよくあった。
 余暇はテニスやジョギング好き、フーバー研究所時代のテニス仲間はと言えば、かのコンドレーサ・ライス(ブッシュ政権後期から国務長官)である。

 2003年夏に台湾へ一緒に行った。井尻千男、藤井厳喜両教授と一緒だった。当時、政権奪回を目指す国民党側は連戦と宋楚瑜が正副総統チケットを取り決めたばかりだった(翌年僅差で国民党・親民党連合は陳水扁に敗退したが)。
 台北の国賓ホテルへチェックインして食事をしていると、隣の宴会場にテレビカメラの放列、何事かと見れば連・宋共同会見である。
 食事が終わって会見場を覗くと、ちょうど終わったばかりで、すばやく片岡さんは連戦(現国民党名誉主席)と握手。二人は大学留学時代の同級生なのである。
「やぁ、連戦(リヤンチェン)!」と片岡氏が呼べば先方は「ペンカン」(片岡の中国語発音)と懐かしそうだった。台湾のテレビが撮影していた。冒頭の写真は、筆者がそのときカメラの放列にもまれながら撮影したもので、ぶれているのはそのためである。
 滞在中、李登輝前総統にも淡水の台湾総合研究所」でお目にかかった。片岡さんは台湾問題に重大な関心を抱いていた。
 近年は毎月一回の「路の会」(西尾幹二氏が主宰の勉強会)で会った。恒例の二次会には欠席がちになられ、どうされたのか気にかけている裡に入院したとの連絡があった。
 病院に見舞いに行くと元気そうで、若返るようにとピンクのネクタイを贈呈した。

 退院されてからも三回ほどやはり「路の会」で会った。入院生活がつらかった様子で二次会参加は遠慮されるようになった。
 昨師走に急逝された。棺には愛用のブルックスブラザースの背広、そのネクタイも添えられたと実妹から伺った。遺作は日本の復活を説く『核武装なき改憲は國を滅ぼす』(ビジネス社刊)となった。
 四月五日、桜の残る東京湾をクルーザーで出航し、横浜沖で沢山の花輪と一緒に散骨した。氏の遺言だった。
 そのセレモニーに参加した筆者は遺骨を海に流すとき、心の中で「海ゆかば」を歌っていた。
posted by 三島研事務局 at 01:28| 追悼

2008年03月01日

林房雄先生33回忌

小林秀雄没後25周年 新保祐司氏が記念講演
鎌倉ゆかりの場所で全国からファンが参集


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 平成20年3月1日、鎌倉市商工会館において小林秀雄没後25周年を記念する文化行事が行われ、鎌倉周辺のファンばかりか全国から多数が参加した。

 三島研究会では鎌倉行きにちなみに同日午前に故・林房雄三十三回忌を部内で催行、上記行事に先立ち、林房雄先生次男の昭彦氏立ち会いの下、墓前祭を行った。
同市浄明寺入り口にある報国寺境内には懐かしい顔が勢揃いして、線香、ウィスキーなどを花とともに墓前に捧げ、全員で般若心経を読経した。

 旧林房雄邸は、その竹寺(報国寺)の左奥をぐっとあがった寺領内にあった。小泉三甲の斡旋だった。
山道の入り口には、一時、林が強引に移住を慫慂した川端康成が住んだ家屋も、近年まで残って居た場所。

 午後の講演会では正論大賞新風賞を受賞した新保祐司・都留文科大学教授が講演し、「批判と批評はちがう。小林が今日なお多くの読者を得ているのは謎の部分が多いからだ」などと小林文学の本質に触れた。
 会がはねて、小林秀雄ゆかりの由比ヶ浜の鰻料亭で集合し、桶谷秀昭氏らの回想談を聞いた。
 桶谷氏は「小林秀雄は謎めいていたが、保田輿重郎はもっと謎めいていた」
 小林秀雄全集をだした新潮社からも二人編集者がかけつけ、また渋沢龍彦夫人も談笑の輪に加わった。

 懇親会の鰻料亭にもぎっしり三十人があつまり、さらに懇親会は鎌倉駅前小町へと場所をかえて二次会。
 講師の新保氏を囲んで、文藝評論家の富岡幸一郎氏ら二十人で遅くまで懇談した。東京からの参加組は深夜帰宅となった。鎌倉在住組はさらに三次会へ流れた。
 天候に恵まれ、穏やかな日となった。
posted by 三島研事務局 at 01:24| 追悼

2005年12月10日

三浦重周氏追悼

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経過報告 宮崎正弘

 いまから35年前、三島由紀夫、森田必勝両烈士が壮絶なる憂国の諫死をとげられた直後に、作家の山岡荘八先生が、つぎの献句を届けてくださいました。
 「白き菊、捧げまつらむ憂国忌」本日の集まりも故人の遺影に白菊を捧げます。
 さて我々の思想的同士、かけがえのない友人だった三浦重雄さんは、さる12月10日、故郷・新潟の岸壁において、皇居遙拝をすませ、正座を崩さずに古式にのっとり切腹、56歳の生涯をみずから閉じられました。

 当日は凛烈な寒風が波止場に吹き付けており天候は吹雪でした。この静かなる切腹は大西中将、阿南陸軍大臣、大東塾の多くの烈士、江藤小三郎、そして村上一郎の系譜にも繋がるものです。三島・森田両烈士の義挙からはや35年。その追悼会「憂国忌」の裏方の責任者でもあった三浦さんは、みごとな統率力で本年の催しを無事終了させ、憂国忌の事後処理を終え、恒例の多摩霊園における墓前報告蔡など一連の行事を滞りなくおえて、さあ一杯やろうか、と言い合っていた矢先、先に旅立ってしまったのです。

 12月4日の墓前祭のあとの直会(なおらい)では、自決を決意していたそぶりさえありませんでした。12月11日、第一報に小生は地面が揺れるような衝撃を受けました。急遽、新潟へ向かいました。

 関越道のトンネルをでると大雪でした。猛吹雪のなか、仮通夜のおこなわれている新潟市内の兄上の自宅に伺ったのは午後十時近くになってしまいましたが、すぐに焼香させていただき、遺体と対面しました。その壮烈、壮絶なデスマスクに深く感動して泪が止まりませんでした。兄上は「じつにみごとな最後でした」と静かな口調で言われました。
 翌12日の通夜と13日の本葬は近親者だけの密葬形式でおこなわれたため、皆さんへの連絡を差し控えさせていただきました。
 出棺後、火葬場まで立ち会って骨を拾いました。

 斎場へのみちのりは冬の新潟にふさわしい雪と日本海の荒波でした。
 しめやかながら粛々とした密葬でした。ご報告申し上げます。

 さて新潟に三日間滞在し、帰京いたしましたところ、メールや電話の回覧などで悲壮な自決を知った全国の皆さんから追悼の言葉、メッセージとともに、「追悼の機会を東京でおこなってほしい」「お別れをしなければ年が越せない」などの熱烈な伝言のやまに囲まれておりました。

 直ちに故人の親しかった友人らに集まってもらい本日の催しを決め、短時日ながら懸命の準備をすすめてまいりました。

 お手元の小冊子も緊急に編集、さきほど刷り上がったものです。故人の辞世が二首。ならびに「白骨を秋霜にさらすを懼れず」という壮絶な決意をはやくからのべていた重遠社の結成趣意書の一部が掲載されております。
 また故人のめずらしい写真および年譜を掲載しました。くわえて三浦さんは卓越した書を残しております。
書道を愛し、「毎日書道展」では数多くの入賞歴。
  東京都美術館で開催される国際書道展にも数々入賞しており、会場に展示しております掛け軸は平成十四年に特選を受賞したものです。殆どの人が知らないのは故人がシャイな性格だったので、ひけらかさなかったからです。


三浦重周先輩の思想、人となり 後藤晋一

 三浦重周先輩に師事し、ご指導を戴いておりました後藤晋一ともうします。30年近く前、三浦先輩から一冊の古書をいただきました。戦後まもなく刊行された、精神的歴史主義に立つドウソンの「宗教と近代国家」という小冊ですが、その書の扉対向の白ページには、先生のクセのある筆跡で、次の言葉が、赤鉛筆で書き込まれております。曰く…、「近代の<神々>に死を宣告し/我らが神々の歴史的復権を!」その下には、「49.11.9」とありますので、25歳の三浦青年が発した激越ですが、若々しい気負いを伝え、その後終生一貫した強靭な思想性を表徴しております。

 ある大思想家の言葉に、「偉大なことは、方向を与えることだ」というものがあります。三浦先輩は、維新革命への綱領問題に取り組み、方向を指し示すことに全精力、全生活を傾けてこられた方でありました。時間の制約から細かな経歴や、時代状況の説明は省略いたしますが、三浦先輩は、昭和45年、早大入学と同時に、「反ヤルタ・ポツダム体制=日米片務同盟打倒」の反共・新民族主義路線を、学生戦線に提起していた、日本学生同盟に加盟します。そしてその年に、三島・森田両烈士による市ヶ谷台の義挙に直面しました。
 昭和48年、日学同の委員長となり、新民族主義政治党派としての「建党=建軍」路線を打ち出したことは、画期的でありました。

 また「建党=建軍」路線を担保する「鉄の規律」による組織論も、左右両翼の耳目を集めるものでした。日学同委員長退任後も、政治局長として組織理論に責任を持ってこられましたが、民族の歴史的危機が深まるなか、少年期から抱いてきた「維新革命」への熱誠は、学生運動という自己限定を越えて次なる構想へと向かい、昭和52年天長節の「重遠社」創建へと至りました。

 日学同=新民族主義運動十年の苦闘のなかから生まれた重遠社は、「…神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ジ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ…」と示された、「終戦の詔勅」を絶対当為とし、綱領の第一に「敗戦国家の革命」を掲げ、民族派戦線に躍り出ます。

 三浦先輩は、後期昭和維新派としての、強い自覚と責任のもと、大日本主義を掲げ、機関紙誌「新民族主義」「新秩序」に論陣を張り、多くの同志を糾合しました。「思想の価値は感化力である」の言葉どおり、先輩の諸理論は人々を魅き付けましたが、感化力の最大のものは、そのお人柄にありました。愛国の初発の「志」を純粋に保ち続けること。

 自覚と信念、生涯をとおして運動を続けることの大切さを教えてくださいました。多くの後進を、愛国者へと啓発してゆく先輩は、その実践者としての普段の暮らしぶりは、厳格なまでに規則正しく清潔で、他に強いることはしませんでしたが、極めて質素な生活を続けられました。

 さて三浦先輩の思想にふれますと、国史への深い理解と知識、国法学者も舌を巻く、国体論によって論じられた、諸論文や講話のなかにその真骨頂はあります。

 三浦先輩の思想に影響を与えたなかに、三島由紀夫・森田必勝両烈士があることは、論をまちませんが、学生時代から京都学派になる書籍に数多くふれ、また京都学派の影響を受けた、文部省「国体の本義」は勉強会でもよく用いられた愛読書でありました。

 戦前の昭和維新運動のなかで、北一輝と大川周明は、両雄として並び称され、強烈な人格と、拠って立つ運動体の違い、そして異なる暮らしぶりは、両者が袂を分かったこともあり、昭和維新史・精神史のうえでは、対極的に捉えられることがありますが、三浦先輩のなかでは、両者の思想の精髄が矛盾なく血肉化されていました。先輩は、おりにふれ、北一輝の「支那革命外史」を繰り返して読んでらっしゃいました。
 この書から、革命哲学と、不撓不屈の革命家の魂を学ぶのだとおっしゃっていました。
 また、大川周明の「二千六百年史」も、維新による祖国復興を確信させる、国史の基本文献として、つねに手元にありました。博覧強記、記憶力のよさは、しばしばひとを驚かせました。

 高邁なわが国の歴史、文化が論じられるときも、ときおり、俗っぽい卑近なも話題も織り交ぜられ、気がつけば、美しい日本の歴史と、聞き手との一体感が得られるのでした。二年程前、次なる論文の構想をお聞きしたとき、冗談めいておっしゃったことは、「あとはカント批判だけだな」という答えでしたが、思想的には、すでに完成された余裕の域にあったように思います。

 先輩は日本民族の特徴を、自然崇拝、現世的、国家的と三つ挙げています。今日の日本は、内に外に、反日・反国体勢力がうごめき、倫理・道徳は地を払い、心胆寒からしめるものがあります。しかし三浦先輩は日本の将来を悲観することは、一切ありませんでした。歴史に精通された慧眼をもって、日本民族には、外圧が来るまで何も起こらないというお考えでした。しかしそれは、ひたすら待機することではありません。

 先覚的愛国者が、たゆまず立ち上がり、運動を継続し、先人の精神を継承してゆくこと、今日このときにおける闘いの重要性を、ご自身の実践的生活のなかに、示されていたのでありました。
 今日、皇室典範をめぐり、不易の皇統に、俗権が容喙しておりますが、このときにあって、先輩の明快なるご高説に接しえぬことは悔やまれます。不世出の思想家であり、卓越した理論家であり、信念の指導者であり、慈愛に満ちた教育者でありました国士三浦先輩の、思想と人となりをご紹介するには、はなはだ、いたらぬ話となりました。
  のちほど、諸先輩、同憂、同志諸賢の追悼のお話の中で、補っていただければ、有難く存じます。


 会場では全国から参集した同士の懇談、決意表明。最後は「海ゆかば」の大合唱がおこなわれました。
 ご参列の皆さま、有り難う御座いました。

 またご供花、弔電、メッセージをおよせいただいた皆さん、欠席ながらもメッセージを頂いたり、御供花をお送りいただいた皆さん、心からご芳情に感謝申し上げ、あつく御礼を申し上げます。
posted by 三島研事務局 at 01:14| 追悼